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スクーデリア・フェラーリ

スクーデリア・フェラーリ(Scuderia Ferrari)は、イタリアの自動車メーカー、フェラーリのモータースポーツ部門である。F1コンストラクターとして、現在はメインスポンサーであるタバコブランド「マールボロ」の名を冠し、「スクーデリア・フェラーリ・マールボロ」(Scuderia Ferrari Marlboro)が正式名称となっている。かつては、ル・マン24時間レースやミッレミリア、カレラ・パナメリカーナ・メヒコなどにも参戦していた。

「スクーデリア(Scuderia)」はイタリア語の厩舎から転じた、「チーム」に当たる言葉である。

概要

スクーデリア・フェラーリは、一貫してシャーシとエンジンを内製してきたフルコンストラクターであり、レーシングチームとして60年以上に渡り活動を続けている(現在の母体企業であるフェラーリ社も、スクーデリア・フェラーリの活動資金を得るために高級スポーツカーを市販したのが始まりである)。同社は自社敷地内にピスタ・ディ・フィオラノ(Fiorano Circuit)と呼ばれるテストコースまで所有しており、F1を始めとして、過去にF2やスポーツプロトタイプによる耐久レースなど、様々なカテゴリーで成功を収めている。また、F1世界選手権創設時から参戦を続ける唯一のチームで、2009年までに最多の16回のコンストラクターズタイトルを獲得し、9人のワールドチャンピオンを輩出。通算最多勝・最多出走など、数多くのタイトルと記録を保持する。

歴史

創成期

1929年、アルファ・ロメオのレーシングドライバーエンツォ・フェラーリがレース仲間と共に創設し、アルファ・ロメオのセミワークスチームとして活躍した。1938年にワークス・チームへ吸収されるが、翌年エンツォが経営陣との対立から会社を去る。第二次世界大戦後の1947年にフェラーリ社を興し、レーシングカーと市販車の製造を始めると、再び「スクーデリア・フェラーリ」の名でレース界に参入。ミッレ・ミリアやル・マン24時間耐久レースなどのメジャーイベントに勝利し、強力な新興勢力となった。

1950年代

1950年から始まったF1世界選手権は、「本家」アルファ・ロメオと「分家」スクーデリア・フェラーリの対決で幕が切って落とされた。1951年イギリスグランプリで、フロイラン・ゴンザレスが、それまで出走した全てのGPで勝利を獲得してきたアルファ・ロメオを初めて破り、初勝利を獲得した。この際、エンツォは歓喜とともに「私は母親を殺してしまった」と複雑な心中を洩らした。

アルファ・ロメオが撤退し、F2規定下で行われた1952年、1953年はスクーデリア・フェラーリの独擅場となり、アルベルト・アスカーリがチーム初のチャンピオンに輝き、翌年も連覇を達成した。アスカーリの個人9連勝、チームの14連勝は最多連勝記録として今なお破られていない(当時選手権対象だったインディ500に不参加のため、出走レースという条件付きの記録)。

メルセデス・ベンツの後塵を拝した後、1956年にはファン・マヌエル・ファンジオが加わり、ランチアから譲り受けたマシン(フェラーリ・ランチア)で自身4度目の王座を得た。ライバルのマセラティが撤退した後は、F1界の盟主として英国系新興コンストラクターの挑戦を受ける立場となる。1958年はエンツォの死児の名を冠した「ディーノ」V6エンジン搭載車でマイク・ホーソンがチャンピオンを獲得したものの、初代コンストラクターズタイトルをヴァンウォールに奪われた。さらに旧態な設計思想が災いし、クーパーの軽量ミッドシップマシンの台頭を許した。

1960年代

1961年、再び規定変更が幸いして、初のコンストラクターズとドライバーズ(フィル・ヒル)の2冠を制したが、地元イタリアGPでウォルフガング・フォン・トリップスが観客席に突っ込み死亡、14名の犠牲者を出す悲劇に見舞われた。1964年は、しぶとく戦ったジョン・サーティースが、最終戦の最終周回での逆転劇で2冠をもたらした。

しかし1960年代は押し並べてロータスなどの英国勢に先行され、チーム運営も内紛や経営不安などで混乱した。1962年には主要幹部が脱退し、翌年新チームATSを結成(フィル・ヒルも移籍する)。さらに買収交渉の決裂に端を発し、フォードがF1界へフォード・コスワース・DFVエンジンを送りこみ、フェラーリ包囲網が敷かれることになる。1969年、フェラーリ社は経営安定のためフィアット傘下に入り、市販車部門の管理を委ねたが、スクーデリア・フェラーリはエンツォが手綱を離さず、建て直しを図った。

1970年代

新たに開発された「ボクサー」と呼ばれる水平対向12気筒エンジンが、名門復活の鍵となった。1973年に25歳のルカ・モンテゼーモロがチームマネージャーとなり、1974年から加入したニキ・ラウダと共にチーム改革を行った。この年のスペインGPでF1通算50勝に到達した後、1970年代後半にチームは黄金期を迎える。横置きトランスミッションを採用したマシン、312Tシリーズで1975年からコンストラクターズ・タイトルを3連覇。ラウダも瀕死の大事故に遭いながら、1975年と1977年のチャンピオンに輝いた。

1979年はジョディー・シェクターとジル・ヴィルヌーヴのコンビが活躍し、ダブルタイトルでボクサー黄金期を締め括った。ヴィルヌーブは往年の名手タツィオ・ヌヴォラーリの再来と呼ばれ、ティフォシのアイドルとなった。

1980年代

ルノーの台頭を受け、チームは1981年からターボエンジンを採用し、弱点のシャーシ設計でも、ハーベイ・ポスルスウェイトをチームに招き、英国系技術の導入を進めた。1982年、1983年のコンストラクターズを連覇したが、ドライバー間の対立がチームに暗い影を落とした。1982年のサンマリノGPでディディエ・ピローニの背信行為に怒ったヴィルヌーヴは、次戦ベルギーGPの予選中、冷静さを欠いた走りが事故を招いてしまい死亡。その後ピローニもドイツGPのフリー走行中に両足を粉砕骨折する重傷を負い、F1キャリアを断たれた。

それ以降は久々のイタリア人エース、ミケーレ・アルボレートが奮闘したが、ターボ開発競争でポルシェやホンダのエンジンに苦杯を舐めさせられた。1988年8月には創始者エンツォ・フェラーリが90歳で死去。1ヵ月後の地元イタリアGPでは、ゲルハルト・ベルガーがマクラーレン・ホンダの連勝を止める奇跡的な1勝を挙げ、亡き総帥へ捧げた。この後、エンツォの死によりスクーデリア・フェラーリの運営権もフィアットが握ることになる。

1989年はナイジェル・マンセルが加入し、V12自然吸気エンジンを搭載し、斬新なセミオートマチックトランスミッションを採用したマシン640を実戦投入するも、信頼性に課題を残した。チームメイトのベルガーはこのシーズンを最後にマクラーレンへ移籍した。

1990年代

1990年にはマクラーレンでチャンピオンを獲得したアラン・プロストが加入し、10年ぶりに“カーナンバー1”をつけた。プロストはアイルトン・セナと熾烈な王者争いを繰り広げ、惜しくもタイトルを逃したが、同年フランスGPではチームの記念すべきF1通算100勝を達成した。1991年も引き続きプロストが残留。ナイジェル・マンセルの入れ替わりにジャン・アレジを起用し、タイトル奪還を目論んだ。しかしエンジンパワー不足やエアロダイナミクスの失敗、さらにはシーズン終盤にチーム批判を繰り返したプロストを解雇するなどチーム内が混乱。1986年以来の0勝に終わり、タイトル争いにも絡めなかった。なお、この年はフィアットからルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロが送り込まれ、社長に就任した。1992年はF92Aの信頼性がなく、完走もできないレースが続いた。1993年は、マクラーレンから戻ってきたゲルハルト・ベルガーとアレジを据えるが、結局3シーズンの間、1勝もできない最長の低迷期に陥っていた。

この危機にモンテゼーモロはチームマネージャー(監督)に、WRCやル・マン24時間レースのプジョーで実績を残してきたジャン・トッドを招聘。トッドは1993年フランスグランプリから指揮を取り、人材確保と抜本的な体制改革に取り組んだ。1994年ドイツグランプリでは4シーズンぶりにベルガーが勝利し、復活の第一歩を踏み出す。この年から現在(2010年)まで毎年必ず勝っている。1995年にはアレジもカナダグランプリで自身初勝利を上げ、徐々に成果も出始めた。その一方でベルガーとアレジの契約を同年で終了。当時2年連続ドライバーズチャンピオンのミハエル・シューマッハ(ベネトン)とエディ・アーバイン(ジョーダン)との契約を締結し、1996年シーズンからドライバーを一新した。

同年、スペイングランプリでシューマッハが移籍後初勝利し、シーズンで計3勝を上げた。技術陣もジョン・バーナードやグスタフ・ブルナーらに代わり、ベネトンのロス・ブラウン、ロリー・バーンらを据え、フェラーリはシューマッハを中心とする一枚岩の体制“チーム・シューマッハ”を構築。この体制で1997年以降、タイトル争いに毎シーズン絡んでいくこととなる。1997年はウィリアムズ、1998年はマクラーレンと僅差のタイトル争いを繰り広げたが、ともに最終戦でタイトルを逃した。1999年は、途中シューマッハの事故で体制存続が危ぶまれたり、第15戦マレーシアグランプリで決勝後、競技審査委員会からレギュレーション違反で一旦失格になる騒動(結果的にフェラーリはFIAの国際控訴裁判所で逆転無罪を得る)もあったが、最終戦で16年ぶりにコンストラクターズタイトルを獲得した。

2000年代

2000年は、前年第8戦イギリスGPでミハエル・シューマッハが事故により欠場後、同シーズンのF399の風洞開発を止め、マシンの熟成をそれ以上行なわないで、代わりに2000年シーズンのF1-2000の開発に注力する決断したことが功を奏し、コンストラクターズと合わせて、21年ぶりのドライバーズタイトルをシューマッハが獲得した。その後、コンストラクターズ・チャンピオンシップを1999年から2004年まで6連覇、シューマッハも2000年から2004年までドライバーズ・チャンピオンシップ5連覇(2000年から2004年にかけて5年連続ダブルタイトル)を成し遂げた。この期間のフェラーリはブリヂストンタイヤと密接な関係を築き、他チームを圧倒した。2002年のカナダGPでF1通算150勝に到達し、そのシーズンは17戦中15勝、2004年も18戦中15勝と、「最強チーム」の名をほしいままにした。

しかし、2005年は、新型マシンである「F2005」がレギュレーションへの対応に失敗、21世紀になって初めてタイトルをルノーとフェルナンド・アロンソにあけ渡してしまう。翌2006年にフェリペ・マッサが加入するが、新車の信頼性不足などのために序盤で落としたレースが多く、シーズン全体的に安定感を見せていたルノー+アロンソに再び敗れた。2006年末には11年間在籍したシューマッハが現役を引退(2010年に現役復帰)。他のロス・ブラウンなどの主要メンバーの人事異動を含め、ひとつの節目を迎えた。

2007年はシューマッハの後釜としてマクラーレンからキミ・ライコネンが加入し、マッサとコンビを組んだ。シューマッハもスーパーアドバイザーとしてチームと新たな関係を結び、ヨーロッパラウンドの数戦はレースに帯同した。シーズン序盤は信頼性に苦んでライバルのマクラーレンに後れを取ったが、一連のスパイ疑惑事件でマクラーレンがコンストラクターズ部門から除外されたために同チャンピオンを早々と確定させる。中国GPでF1通算200勝を達成、そして最終戦ブラジルGPにおいてライコネンが逆転でワールド・チャンピオンに輝き、コンストラクター&ドライバーの二つの栄冠を奪還することに成功した。なおブラジルGPではマッサも2位にはいって1-2フィニッシュを遂げ、最終的なシーズンポイントを204としてマクラーレンが除外されなかった場合の203ポイントを1ポイント上回り、トラック上の争いでもコンストラクターズチャンピオンにふさわしいチームであったことを証明して見せた。また、この年の年末にはチーム代表がジャン・トッドからステファノ・ドメニカリに交代した。

2008年フランスGPではF1通算200回目のポールポジションを獲得した。この年もチャンピオン争いは混沌とし、最終戦までマッサがランキングトップのルイス・ハミルトンを追っていたが、1ポイント差で敗れた。

2009年シーズンは苦戦を強いられている。この年から搭載が認められたKERSをF60に搭載するも、当初は入賞圏内フィニッシュさえままらないほど、成績が低迷し、1993年以来16年ぶりにポールポジションを記録せず、かつコンストラクターズで4位に転落した。また、ハンガリーGPにおいて、バリチェロのマシンから外れた部品がマッサのヘルメットに直撃し長期離脱を余儀なくされた。その苦しい状況のなかで、ライコネンがベルギーGPで勝利をあげた。

  • なお、マッサの代役は当初はミハエル・シューマッハが起用される予定だったがバイクレースでの事故の首の痛みがとれず断念。テストドライバーのルカ・バドエルを起用した。しかし成績不振のためヨーロッパGP・ハンガリーGPの2戦のみにとどまり、イタリアGP以降はフォース・インディアより移籍したジャンカルロ・フィジケラが担当することとなった。

2000年頃からのマシン開発はエアログリップを重視する傾向が強い。1998年の自社風洞設備(豊富な資金をバックにした、当時最先端のもの)の完成、空力に明るいデザイナー陣の存在、ブリヂストンのフェラーリ向けスペシャルスペックタイヤ(ミシュラン参戦時)の影響など要因は複数あるが、結果として裏返しに、メカニカルグリップが求められる低中速、もしくは縁石の高いサーキットでは苦戦している。特に、ダウンフォースがほとんど期待できないモナコでは2001年以降勝利から遠ざかっている。

2010年代

2010年は、ライコネンの後釜としてルノーからフェルナンド・アロンソが加入し、マッサとコンビを組む。

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